
言葉には力がある。
だからこそ人を傷つける発言は許されない。
2026年3月13日、元文部科学事務次官の前川喜平氏がSNS上で投稿した言葉にわたしは目を疑った。
体調不良で公務を欠席した高市早苗首相に対し
「この際『急性肺炎』になって、訪米やめろ」とXに書き込んだ。
風邪の疑いで休養した首相により重い病気になれと願う。
これが批判と呼べるのだろうか。
高市首相は関節リウマチの持病を抱えていることでも知られている。
免疫疾患を持つ人にとって風邪であっても油断できない。
そんな相手に対して病気の悪化を願うような発言はもはや政策批判の範疇を超えている。
自民党の鈴木貴子衆院議員は前川氏の投稿を引用し、こう苦言を呈した。
「『病気になればいい』といった言葉は、批判でも議論でもありません。それはただの心ない言葉です」と。
まさにその通りだと思う。
民主主義とは、相手の不幸を願うことではない。
事実と議論で支えられるものであるはず。
「面従腹背」を座右の銘にする人物の本質
前川氏といえば、「面従腹背」を座右の銘として公言してきた人物。
この言葉の意味をご存じだろうか。
表向きは上の者に従うふりをしながら、内心では反発している態度のこと。
つまり、本音と建前を使い分け、表面的には従順なふりをするという処世術である。
かつて前川氏は「役人の心得として面従腹背の技術、資質は持つ必要がある」と語っていた。
独自の吏道論として披露していたという。
しかし、この姿勢には疑問を感じずにいられない。
公僕として国民に仕える立場にありながら、裏では別の顔を持つ。
そのような生き方を堂々と語ること自体、誠実さとはかけ離れている。
そして今回の発言である。
日頃から「右傾化を深く憂慮する一市民」と名乗り、人権や民主主義を訴えてきた人物が、他者の病気を願う言葉を平然と発信する。
この矛盾に気づかないのだろうか。
人権を語る者こそ 人権を守るべきではないのか
わたしが最も違和感を覚えるのは、この一点に尽きる。
人権を標榜し、弱者に寄り添う姿勢を見せてきた人が、なぜ他者の健康被害を願うのか。
病気を揶揄する行為は、いじめと何が違うのだろう。
ネット上でも「言って良いこと悪いことの区別もつかないのか」「人間性を疑う」という声が相次いでいる。
前川氏は文部科学省で大臣官房長や文部科学審議官を歴任した人物。
日本の教育行政を担ってきた経験があるにもかかわらず、このような発言で注目を集めてしまう。
教育とは何だったのか。
子どもたちに「いじめはいけない」と教える立場だった人が、公然と他者を傷つける言葉を放つ。
あまりにも情けない姿だと感じる。
3月13日午前1時台に投稿された問題のポストは、同日夜になっても削除されていないという。
謝罪の言葉もない。
自分の発言に責任を持たないのであれば、他者を批判する資格などあるのだろうか。
政治的な立場は関係ない。
保守でもリベラルでも、人の不幸を願う発言は許されない。
これは人としての基本的なマナーであり、道徳の問題。
わたしは特定の政党を支持しているわけではない。
けれど、今回の件は看過できなかった。
言論の自由は守られるべきである。
しかし、自由には責任が伴う。
他者を傷つける言葉を発信する自由など、本来あってはならない。
前川氏には、ぜひ自らの発言を振り返ってほしい。
人権を語るのであれば、まず自分自身が人権を尊重する姿勢を示すべきだ。
言葉の重みを知る者こそが、言葉を大切に使うべきなのだから。




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