
信頼を失ったのは、いったいどちらなのか。
共同通信が配信した記事を読んで、まず頭に浮かんだのがこの問いだった。
「高市首相、取材対応は少なく 歴代と比べ、Xでは連日発信」という見出し。
なるほど、たしかに数字だけ見れば、ぶら下がり取材の回数は歴代より少ない。
就任から5カ月間で34回。
石破茂氏は57回、岸田文雄氏は90回、菅義偉氏は50回、安倍晋三氏は44回。
こう並べられると「少ないじゃないか」と感じる人もいるだろう。
けれど、同じ記事のなかにひっそり書かれている事実がある。
「節目に実施する記者会見の回数に大きな差異はない」
ここ、ものすごく大事なところ。
正式な記者会見はちゃんとやっている。
それなのに見出しでは「取材対応は少なく」と打ち出す。
これこそがわたしがずっと感じてきた違和感の正体だと思う。
切り取りへの「自衛策」としてのSNS発信
高市総理がXで1日平均2件超、5カ月で約370件も投稿しているという数字は、むしろ驚くほどの発信量。
首相周辺は「若者ら幅広い層に、自身が伝えたいことを届けるツールとして活用している」と語っている。
至極まっとうな戦略だと、わたしは思う。
思い出してほしい。
2025年10月、自民党総裁に就任した直後のこと。
囲み取材の場で、報道関係者が「支持率下げてやる」「支持率下げるような写真しか出さねーぞ」と発言する動画がSNSで拡散された。
時事通信はのちに謝罪したけれど、あの映像を見た多くの国民は凍りついたはず。
報道の中立性を掲げる側が堂々と「下げてやる」と口にする。
背筋が寒くなるような光景だった。
こんな空気のなかで、ぶら下がりに何十回も応じるメリットがあるだろうか。
揚げ足を取られ、文脈を無視した一言だけを切り出される。
そのリスクを考えれば、自分のことばで、自分のタイミングで発信するSNSを選ぶのは、むしろ当然の判断。
2月下旬のカタログギフト問題でも高市総理は当日中にXで事実関係を説明した。
翌日の取材要請には応じなかったというけれど
即座にSNSで一次情報を出しているわけで国民への説明責任を放棄したとは言いがたい。
「不都合な情報が届かない」と言うけれど
この問題を語るとき、メディア側がよく持ち出すのが「不都合な情報が国民に届かなくなるリスク」というフレーズ。
北海道新聞は就任2カ月の時点で早々にこの論を展開していた。
でも、立ち止まって考えてみたい。
不都合な情報を届けないのは果たしてどちらなのか。
報道しない自由を行使し、都合のいい部分だけ抜き取り、あたかも全体像であるかのように伝える手法。
これをずっと繰り返してきたのはほかでもないオールドメディアの側ではないか。
もちろん、権力の監視機能は民主主義に欠かせない。
わたしだって、メディアが不要だとは思っていない。
ただ、監視する側がバイアスまみれだとしたら、その「監視」はもう機能していないのと同じ。
信頼されていないフィルターを通すくらいなら、ダイレクトに国民へ届ける。
この判断を一方的に批判するのは、あまりにもフェアじゃない。
共同通信の記事に登場する専門家は「自身の主張を展開できる場を戦略的に選んでいる」と指摘していた。
そのとおりだと思う。
ただし「戦略的に選んでいる」ということばには、どこか否定的なニュアンスが漂う。
戦略的に情報発信するのは、政治家として当たり前のこと。
むしろ、それができなかった歴代の総理のほうが問題だったのかもしれない。
テレビをつければ、コメンテーターが「説明責任」と繰り返す。
でもその「説明」の場を恣意的にゆがめてきたのは誰だったのか。
時代は変わった。
国民がスマホひとつで一次情報にアクセスできるいま情報の仲介者としてのメディアの存在意義が問われている。
信頼を取り戻すべきはまちがいなくメディア側。
高市総理のSNS発信を批判する前に
なぜ国民がメディアよりSNSを信用するようになったのか。
その答えに向き合うことが
いまのオールドメディアに必要な
たったひとつの処方箋だと思う。




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